タンザニアの「お話」その1

 

 私のようなテレビっ子世代でも昔話というものは頭に残っているもの。考えてみると日本の昔話には教訓めいたものが多いのではないだろうか。例えば「ウサギとカメ」。誰でも知っているこの話の中には少々能力があっても自分の力を過信して油断すると失敗するし、逆に能力的には劣っていっても最後までコツコツやれば成功することが語られている。「のろまなカメ」もやればできるんだとのろまな自分たちを叱咤激励するにはうってつけの話で、少しばかり偉そうにしている人をウサギに見立てて「今にみておれ」と思っている人も結構いるのではないだろうか。

 タンザニアにもたくさんの昔話がある。口承文化を近世まで続けていたのだから村々には興味深い伝説や言い伝えが残っているはずである。長い夜の数少ない楽しみとして大人から子供に語り継がれてきたそんな話に私は惹かれて本を捜してみた。
「ダチョウの首はなぜ長いか」
「カメの甲羅はどうしてデコボコしているのか」
「猫が女の人の横にいる理由」
などの動物が登場するものをいっぱい見つけた。また元気な若者や酒飲み老人の話もあるが、最も私の興味をひくのはウサギの話である。

 ワニの卵を食べてバカなワニから逃げ出すウサギの機転、ハイエナをだましてお金を独り占めするウサギの悪知恵、そして村人に捕まるが一命と取り止めるウサギの見事な作戦。これらはすべて日本人から見ればウサギの「浅知恵」で、そんなものを使っていると最後には痛い目に会うというのが日本人の心の底にあるパターンだが、こちらの話ではそれがまんまとうまくいってしまうのである。これらの話の中には、『したたか』に生きることが大切なのだという教訓が隠されているような気がしてならない。それはアフリカの厳しい自然環境の中で生きていくのに獲得した真の知恵なのだろうか、それとも単なる浅知恵なのだろうか。本だけでは満足できなくなった私は今、生徒から彼らの田舎に伝わる昔話を集めている。その中にもウサギの話があった。それはビクトリア湖に浮かぶウケレウエ島に伝わるものである。

 

賢いウサギ

 昔々、あるところに落花生畑を持った男がいました。男はとても幸せでした。というのは畑には落花生がいっぱい実り、お金をたくさん稼げたからです。

 ある日のこと、男は畑を見て驚きました。畑の真ん中の落花生が誰かに盗まれているのです。どうやら泥棒の仕業のようです。次の日、また落花生が盗まれていました。どうやら泥棒は夜中にこっそりやって来て落花生を盗むようです。そこで男は泥棒を捕まえる罠を仕掛けることにしました。まず、男は木で人間にそっくりな人形を作り、その人形に糊を塗りました。そして男はその粘着人形を落花生畑の真ん中に立てました。人形はまるで畑を見張っている人間のようでした。男は次の朝を楽しみに、家に戻りました。

 夜中になりました。落花生畑にウサギがやって来ました。ウサギは畑の中にいる「見張り」を見て驚きました。これでは落花生を盗むのは無理です。しかしあきらめ切れないウサギはその見張りをだましてやろうと決めました。そこで 

「や〜 見張りさん!」
とウサギは声を掛けたのですが、見張りは返事をしてくれません。 

「見張りさん、僕は泥棒じゃないよ。」
ともう一度言ったのですが、返事をしてくれません。しかたなくウサギは 

「怒らないでくれよ。僕はただ君とあいさつがしたいだけなんだよ。僕は悪いやつじゃないよ。」
と続けたのですが、見張りはウンともスンとも言ってくれません。そこでウサギは見張りにもう少し近づいてみることにしました。見張りが自分に気がついていないのかもしれないと思ったからです。ウサギはおそるおそる近づき、とうとう見張りの前まで来てしまいました。そして握手をするために右手で見張りの手をしっかり握りました。

「や〜 見張りさん、あいさつをしょう。」
 しかし見張りは口をきいてはくれません。それどころかウサギの手をつかんだまま放そうとしないのです。びっくりしたのはウサギ。 

「どうして君は僕を捕まえるんだ! 僕はただあいさつをしに来ただけじゃないか。」
それでも見張りは黙ったままです。ウサギは恐ろしくなってきました。逃げようとするのですが見張りは手を放してくれません。

「頼むよ、見張りさん放してよ!」
ウサギが何を言っても見張りは黙ったままです。ついにウサギは左手で見張りの腰を叩きました。するとどうでしょうウサギの左手は見張りの腰にへばり付き取れなくなってしまいました。次にウサギは右足で蹴りましたが、これも同じことでウサギの右足は見張りにくっついてしまいました。やけくそになったウサギは

「なめるよ〜! 今すぐ放せ! さもないと俺様の強烈な左足蹴りを食らうことになるぞ!」
と見張りを脅したのですが、動じない見張り。ウサギは思い切り左足で蹴りましたが、その左足もあえなく見張りに捕らえられてしまいました。最後の手段の頭突きも失敗し、ウサギの全身は見張りに捕まえられてしまい、身動きが取れなくなってしまいました。                 

 朝になりました。息子を連れた男が畑にやって来て、罠にかかったウサギを見つけました。男はとても幸せな気分でした。泥棒を捕まえることはできたし、おまけにおいしいウサギの肉まで食べられそうだからです。男はウサギに近づき

「や〜 ウサギ君! 君が泥棒だったのか。」
と言うと、ウサギは

「違いますよ おじさん! 僕はただ夜中にここを通りかかっただけですよ。すると見張りさんがいるじゃありませんか。そこであいさつをしたんです、これは習慣でしょ。でも見張りさんは僕のことを無視するんですよ。だからしかたなく近寄ったんです。それで握手したら手を捕まれ、ご覧の通りですよ。でもおじさんが来てくれて助かりましたよ。」
 男はウサギが嘘をついていることを知っていました。ですからそれ以上何も言いませんでした。その代わりに男は息子に、ウサギを家に持って帰ることとお母さんにウサギを殺して昼ご飯にするように伝えろと言いました。そこで息子はウサギを捕まえて家に向かいました。しばらくしてウサギは息子に

「君のお父さんは君に何って言ったんだい。」
と尋ねました。そこで息子は男が言った通りをウサギに教えてやりました。すると

「違うよ。君はお父さんの言ったことをわかっていないよ。いいかいお父さんは君に、お母さんに鶏を昼ご飯に用意し、客である僕にふるまうように言ったんだよ。わかるかい。」
とウサギは言うのです。まだ小さい息子は見事にだまされ、ウサギの口車に乗ってしまいました。

 息子とウサギは家に着きました。息子はお母さんにウサギの言った言葉を伝えました。お母さんはお客を見て大喜びです。お母さんは温かくウサギを歓迎し、昼ご飯の準備を始めました。やがて鶏の食事の用意ができました。そこでお母さんは息子に食堂をきれいにさせました。

 さあ、いよいよ食事の時間です。まんまとお客になりすましたウサギは大満足です。でもいつ男が戻ってくるかわからないので急いで食べました。おいしい肉で満腹になろうとした時、ウサギは男が意気揚々と畑から戻って来るのを見ました。これはまずいとウサギは逃げ出す方法を考えました。一方家に着いた男は妻に捕まえたウサギのことを尋ねました。驚いたのは妻の方、泥棒のウサギを客人としてもてなしていたのですから。だまされた息子がいけないのです。しかし今は息子を叱ることよりもウサギを捕まえることが先決です。男はウサギを捕まえるために食堂に犬を入れました。するとウサギは待ってましたと残っていた食事をすべてその犬に投げつけたのです。犬はおいしい肉が投げられ、すっかりウサギを捕まえることなど忘れて、肉に飛びついてしまいました。その隙をねらっていたウサギは家からさっと逃げてしまいました。男と妻は後を追ったのですが、ウサギを捕まえることはできませんでした。男はえらく怒ったそうです。

 (シルベスターという生徒より)

--------------


 先日、図を描いてくる宿題を出しました。そこで翌日、一人一人の宿題を調べていたのです。一人の生徒が相当使い込んだびっしり書かれたノートの一ページを開いてここだと示すのです。誰が見ても書かれて1年は経っているとわかります。私はバカな息子にはなりたくないので

「この図はいつ描いたのか。」
と赤茶けた図を示しました。

「昨日です。」
とその生徒は平気で言うではないですか。そこで、その図の前後に書かれている多量の記述を指しながら

「じゃ、これらの文や図はいつ書いたんだ。」
と聞いてやりました。彼は一瞬私の顔を怪訝そうに見ましたが

「これらは昨日より前です‥‥  でもこの図は昨日書きました。」
とまだ堂々と主張するではないですか。いいかげん腹が立った私はその生徒を教室から追い出し、その背中に『おまえはウサギか』と日本語で言ってしまいました。               

1993年

 

 

▲授業中の私